Discursive Arena

Yves Chun-Ta Chiu

媒介即現場—COVID-19疫情時代下的行為藝術挑戰 國立高雄師範大學兼任助理教授、獨立策展人  在COVID-19的疫情時代中,一種新的城市景觀出現:戴著口罩的人們遍佈於各種公共空間或群聚的工作場所,這個嶄新的義肢不僅揭示著口罩之於不同文化語境的符號意涵,更以一種新穎的社會性重新定義了「個體—身體—場所—規範」之間的關係。作為義肢的口罩,並非用於增補身體機能的缺陷,而是促進社會安全網的治理與機制的運行。在這一普遍情境中,一向強調「現場性」美學的行為表演藝術不得不線上化,同時也帶出對媒介美學這一根本課題的探討契機。 本次由武谷大介所策劃的「R3:逃逸城市」(R3:Scape-City)始自2018年「響應:國際行為藝術節與會面」(Responding: International Performance Art Festival and Meeting)(以下簡稱「響應」)系列的第三年,因疫情影響,除了延期舉辦之外,亦發展出「線上計畫」(Online Project),內容包含「遠端行為」(Performance at Distance)、「論述廣場」(Discursive Arena)以及「眾人上線」(Everyone Online)(建構中)三部分,「遠端行為」迄今已舉辦四個場次,共有十三位世界各國的藝術家於線上發表、計十四件作品,並有六位研究者/評論者參與論述的發展建構。 「響應」關注在後全球主義、新自由主義和高度虛擬與網路化的社會交往的背景中,個體生命與群體交往在多種真實之中不斷切換的複雜性,以及行為藝術如何通過其實踐來回應種種複雜的社會政經現實,展開「藝術和社會之間的批判性對話」。計畫第一年以日本特別是受福島事件影響的沿海地區為主,第二年「紀念碑」發展出日本大阪與菲律賓馬尼拉的國際交流,第三年則為日本諏訪與新加坡(主要與「藝術家村」(TAV)的連結)。「響應」雖關注社會與藝術的關係,但也強調與「社會參與式藝術保持明顯的距離」,反而,唯有直面與肯認總是身為「局外人」(outsider)的普遍情境,以及「參與」與「暴力」僅一線之隔的戒慎,方能以真實的態度投入於「面對他者」(facing to the other)的工作。同為行為藝術節策展人,筆者不由得對「響應」整體規劃的複雜性、論述的深度以及長期操作感到佩服。本文雖受邀針對「遠距行為」第四場次中國藝術家Tan Wei Chen、新加坡藝術家李嘉昇、印尼藝術家Pingkan Persitya Polla的發表進行評析,但也稍微瀏覽了前面三場的作品,整體來說,藝術家對於疫情語境和線上展演的思考,似乎多過策展人所提起諏訪盆地繩文文化Swanimism與節慶儀式的問題意識。 被操控的凝視 儘管如此,三位藝術家的作品通過將日常活動儀式化以重新問題化特定事/物的做法仍有其張力,也反應了高夫曼(Erving Goffman)《日常生活的自我表演》(The Presentation of Self in Everyday Life)所論及社會個體如何以表演來面對他者以及操控角色距離(role distance)的交往之道。不過,就網路視頻作為主要呈現介面的形式來說,相較於「面對他者」的狀態現場(conditional site),更像是經由設定來「讓他者面對/凝視自己」,不論是在公共場域進行現場行為的錄製,或是私密場所搭起的拍攝,視頻的呈現都已是某種被[藝術家]操控的凝視。這與現場行為的最大差異在於,在現場中,觀眾總是可以移動與改變觀看視角的,但在視頻上僅只於將畫面放大/縮小。這裡有兩種觀看的方式的角力,一種是由藝術家以其權力設置與剪輯的觀看,一種則是觀者可藉由前進/回溯/暫停等功能來黨握自己觀看的權力,而這都指向了當代線上行為/行為影像作品的後製學以及「媒介即現場」的問題。 從這個角度來說,新加坡藝術家暨藝術家村成員李嘉昇(Jason Lee)的《島嶼—生命3.0:水水操》(Island Life 3 Water Exercise)是最接近一般行為藝術的「現場」呈現,不論是記錄路過人們的反應,還是一刀未剪的時間性。現居台灣的李嘉昇,2016年來台就讀國立台北藝術大學藝術跨域研究所,畢業後留居於台北八里創作並策動許多國際交流計畫。這次他的《水水操》是自2019年開始《島嶼—生命3.0》系列作品的第三件。他經常運用身體的「移動」以及象徵著人類生命的「水」來展開創作,藉此回應長期旅居異國生活的感受。在《水水操》中,藝術家騎著租借的腳踏車到關渡公園中,用預先準備好的水桶盛水並將一包包塑膠密封袋裝滿水,再將水袋綁身上,然後在廣場上跑步、做起體操運動。我們可以看見,藝術家的怪異行徑不斷引起側目,成為那個令人困惑的他者。然而,藝術家自身欲探問卻是:作為身在此地的外國人,「我到底是誰?」顯然,這種身分、認同與異化的困惑,不僅只是國籍、種族或居住時間的長短,而更攸關日常生活中的自我表演是否被意識、反思和接納。 相較李嘉昇的刻意素樸,中國藝術家Tan Wei Chen與印尼藝術家Pingkan Persitya Polla則明確運用影像後製技術來完成其行為錄像。Tan Wei Chen的「日常測量」(Daily Measurement)系列呈現她對萬事萬物不斷變化/變質下的細膩感觸,她說這是一種「悲哀的收支平衡」。似乎,在這樣一種悲觀的樂觀主義中,她認知到唯有自己是新鮮的,以及必須努尋找保持每天新鮮感的生活態度。在《日常測量:顏色》(Daily measurement: color)中,她不斷在一位男性背後以黑色顏料徒手寫下「LOVE」,持續疊加起看似豐盈,最終卻糊成一片的筆漬,彷彿訴說著「愛」的情感在過剩下的相互消解,徒留擔負。《日常測量:重量》(Daily […]

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Anggraeni Widhiasih

Performance at Distance: Refleksi atas Materialitas Sebagai bentuk seni yang berhubungan erat dengan bagaimana tubuh ber-relasi dengan realitas kesehariannya, seni performans kerap membingkai dinamika materialitas. Materialitas tubuh, benda, pemandangan kota, bahkan bingkai layar dialami secara berbeda saat perubahan terjadi dari waktu ke waktu dalam konteks sosial, budaya, politik, dan ekonomi. […]

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Jane Shishido

Performance In Three Parts When the covid pandemic made it impossible in 2020 to resume normative live and in person exhibition platforms; skeptics assumed the art world would suffocate. Blockbuster shows suddenly shutdown, art fairs postponed, international travel stopped; no biennale, triennial, and auctions. Performance art; the most challenging, purest […]

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Miri Hamada

To write for 10 minutes about “EDIT A 100 MINUTES PERFORMANCE INTO 10MINUTES IN EXACTLY 10 MINUTES”   Youtuberのヒカキンが愛されるのは動画の面白さだけでなく、垣間見えるストイックな姿勢に人々が尊敬の念を抱くからだろう。人々がぼんやりスマホをいじっていたら過ぎてしまうような数分の時間の動画を作るのに、要される時間は数倍、時に何十倍ともなる。それは観る人へのサービス、ミスの隠蔽あるいは披露、作者のこだわりなどが掛け合わされた作業時間の結晶だ。動画の「完成」は一般的には、担保された質を持ち、作者の納得が成立した状態であるということが考えられる。そのことを前提にすると、100 分のパフォーマンスを10分で10分に編集で編集するというのは、タイトルでもうオチがついている。オチがついている、というのはともすれば否定的な言葉にとられるのかもしれないが、提示された一つの文章に、起承と転結が、あるいはボケとツッコミが、内包されているということである。少々強引ながら、コンセプチュアルアートやパフォーマンスアートの作品では結構よくあることなのではないだろうか。 この作品は、目指された完成として編集された10分だけでなく、編集している、恐らく集中状態のたくみちゃんの姿も観る事ができる。そのほかに 100 分の早回し、編集画面もである。興味深いのは、それらが全て等しく分割された画面で等価値に提示されている事である。パフォーマンスの動画の編集という、事後的に行われる作業を、 ライブの中に引き出している。これらは一旦、パフォーマンスの全部とも言えるかもしれない(そして全部とは言えない。)*この文章も10分で書いてみました* XU FUCHEN – IMAGINARY について   静謐な空気である。円状に置かれた生卵があり、真ん中に鎮座するアーティストはそれらを空手の瓦割りのように一つずつ頭で割っていく。規律的なパフォーマンスの姿と対比して、落ち葉が風によってアンコントロールな踊りを見せている。人体と、鳥の細胞や胚の総合である卵とが、地面でその生を交差させている一方で、背後の高層ビル群は一度も歩いたことが無い。ある程度決められた動きと、卵の割れる瞬間に着目してアーティストにその繰り返される行為の次なるきっかけが訪れるのはいつだろうかと予想しながら観ていると、卵が彼の頭から離れなくなってしまう瞬間があり、それは卵という物質からの応答のようでもあった。 CHOMPHUNUT PHUTTHA – ELECTRIC SHELLS について この作品は Facebookライブで行われたパフォーマンスの記録ビデオである。アーティストの姿は見れず、おそらく赤ちゃんやペットを見守ったり、留守宅を監視する目的を持ったプロダクトが代わってパフォーマンスをつとめている。思わず擬人化してしまうのは、目玉を思わせる姿をしているからかもしれないし、個人的にはピクサーの映画 「ウォーリー」を思い出すからかもしれない。(さらにそれは同時にその映画の持っているストーリーの寂しさも否応なしに連れてくる)もちろんこれをしつらえたのはアーティストであり、そこに外部の意思は存在しているのだが、だんだんその機械の自立した意思を感じてきてしまうのはロマンティックな性ゆえかもしれない。機械が「観て」いるのは自分の姿と、書き込まれるFB のコメント、それもアーティスト個人あるいはResponding に向けられた挨拶や、親しみを伴った声かけであるが、それらに応答することはできず、時折、タブレット自体の画面に姿が反射し、液晶、画面それ自体、 カメラの機構、それらの合わせ鏡の連続のような複雑な次元の間に落ち込んでしまったような感覚がもたらされる。 Sophia Natasha Wei – Glowについて  リラックス。それはインスタグラムのライブ配信や、Tiktokにアップロードされた動画の手触りに似ていてるかもしれない。私たちは実は親しくて、長いビデオ通話をしている中で現れた場面だったかのように錯覚する。その声を知らないことの方が不自然に感じるほどに。 前述のCHOMPHUNUT […]

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Marron Shibukawa

幽霊について  よく知られるように、芸術作品における反復不可能な一回性のアウラは写真や映画といった複製技術の登場により、その美学的価値に疑問符を付けられるようになった。さらに映画・写真・ヴィデオの旧式メディアに残存していたフィルム、印画紙、テープといった物質性にかろうじて支えられていた真正性のアウラも、コンピューターテクノロジーの発展により一掃されてしまった。あらゆる記号やイメージは実体のないデジタルデータに還元され、インターネットの情報空間をさまよう〈幽霊〉になったのである。  アウラの喪失すら喪失された時代、ライヴの経験は〈いま・ここ〉の物質的な基盤から浮遊した〈幽霊〉の知覚に憑りつかれる。ただ、〈いま・ここ〉の生き生きとした経験に関心を抱くパフォーマンスアートは、現前性や反復不可能性といったライヴのアウラ的性質と完全に手を切ることができない。それゆえ、インターネットの情報空間を「ライヴパフォーマンス」の舞台とすることに、いささかの戸惑いを感じてきたのではないか?  しかし、COVID-19により身体的な移動と接触が制限されたいま、パフォーマンスアートは、デジタルテクノロジーに媒介された〈いま・ここ〉の〈幽霊〉を再検証し、そこから生み出される美学的・社会的・政治的リアリティに対する戦略的な応答を求められている。 Ⅰ.  こうしたライヴに憑りつく〈幽霊〉の揺らぎを明確に取り出してみせたのが、たくみちゃんの〈To edit a 100 minutes performance into 10 minutes in exactly 10 minutes〉である。  彼は100分のパフォーマンスから、4種類の映像を作り出した。それらの映像は4分割されたスクリーン上で同時に再生された。ユニークなのは、「10分」のタイムラインに収まるものでありながら、それぞれの映像が異なる時間のリアリティに属していることである。そのため、4種の映像は、あたかも「私こそが現実である」と主張しながら、互いに〈本当の現実〉を奪い合っているように見える。  もっともオリジナルのパフォーマンスに忠実なセクションは、100分のパフォーマンスを10倍速で再生した左上の映像である。それは確かに撮影されたすべての時間を視聴者に提供する。とはいえ、あくまでも早回しであり、現実に流れる時間の速度とは一致しない。編集された時間に慣れ親しんだ現代人には、カット編集され、等速で再生される右下の映像の方が、よりリアルに感じられるかもしれない。  一方、右上と左下のセクションは、100分のパフォーマンスを10分に編集するたくみちゃんの様子を撮影したものだ。右上には、ときおりマウスを操作する以外は微動だにしない、まるで彫像のようたくみちゃんの姿が映し出され、左下では彼が操作する映像編集ソフトの画面がモニターされている。  このふたつのセクションは、記録された100分のパフォーマンスの外部に位置する現実であり、10倍速とカット編集された映像に対するメタフィクションを構成している。したがって、〈本当の現実〉は、右上か左下のどちらかだと言いたくなるかもしれない。  だが、果たしてそれは本当だろうか? メタフィクションは、分割された画面に配置され、記録された時間の一部に組み込まれたとき、〈本当の現実〉を主張する利点を失ってしまう。視聴者にとって、それらはすべてスクリーン上の等価な視覚情報であることに変わりはないのだ。  それでは、右上の長回しはどうだろうか。たくみちゃんはパソコンの前に座る10分間の時間を機械的に録画した。その映像は時間の編集がなされていないばかりか、視聴者が作品を再生する現実の10分間と完全にシンクロしている。だからパフォーマーと鑑賞者のあいだには同時性の体感が生じる。  冒頭で指摘したように、〈いま・ここ〉のリアリティは、パフォーマンスの反復不可能な一回性に求められることがある。そのリアリティの根拠となるのは、パフォーマーと鑑賞者が〈いま・ここ〉を共有する一体感だ。であれば、パフォーマーの10分間を鑑賞者の〈いま〉にシンクロさせた右上の映像は、一度きりの〈本当の現実〉を体験させていると言えないだろうか?  しかし、いくら10分のタイムラインを視聴者の現実にシンクロさせようとしても、わたしたちは画面上に並置された10倍速の時間、編集された時間、そして映像が編集されつつあるモニターの時間といった、複数の時間が生みだすリアリティの葛藤に巻き込まれてしまう。  つまり、そもそもここに〈本当の現実〉などというものは存在しないのだ。こうした複雑な知覚の手順を作品に組み込むことで、たくみちゃんのパフォーマンスは、デジタルテクノロジーの介入が、いかにして現実のリアリティを変えてしまうかを明らかにしている。  インターネットに接続されたパソコンやスマートフォンのデバイスは、ゲーム、音楽、映画、ニュース、チャットといった複数のアプリケーションの並列処理を可能にし、現実のあらゆる諸要素を自由に組み合わせて消費できる情報資源に変えてしまう。同様に、デジタルテクノロジーを介して知覚された現実は、〈いま・ここ〉を異なる手順で出力された複数の時間の流れに変換する。それら複数の時間を並列処理する鑑賞者には、それぞれ異なる感覚、意味、情動、リズム、エネルギーがフィードバックされ、結果的に〈いま・ここ〉のリアリティは〈幽霊的な揺らぎ〉を帯びた不安定な現象に変容してしまう。  つまり、リアリティの源泉は、現前する身体/物体の一回性から、シンクロする時間の瞬間性へと移行する。それゆえ〈いま・ここ〉の出来事を起こすのはパフォーマーの主体的な行為ではなく、鑑賞者とシンクロする複数の時間の重なりになるのである。  とはいえ、それはたくみちゃんがライヴ・パフォーマンスにおける〈いま・ここ〉のアウラを放棄したことを意味しない。むしろたくみちゃんは、〈いま・ここ〉の〈幽霊的な揺らぎ〉のなかに、パフォーマンスの新たな一回性を見出そうとするのである。 Ⅱ.  チョンプナット・プータ〈Electric Shells〉は、たくみちゃんとは異なる観点から、デジタルテクノロジーに媒介されたコミュニケーションのありかたを浮かび上がらせる。一言で言えば、本作はライヴカメラに対する不気味な感覚をあらわにする。  本作のディスクリプションには、「あなたが私を見ていることを私は知っている。なぜなら、私はあなたを見ているから」といった内容が書かれている。もちろん、これは一方的にわたしがあなたを見ているだけでは成立しない。わたしがあなたを見ていて、あなたがわたしを見ていると知ることができるのは、わたしたちが互いに見つめ合っているときだけである。  この文言が示すように、パフォーマンスでは、「お互いに見つめ合っている」という状況が提示される。ただし、お互いを見ているのは人ではなく、カメラである。  ウェブページには、ひとつのパフォーマンスを別の視点から記録したふたつの映像がアップロードされている。ひとつは床に置かれたライヴカメラの視点から部屋の様子を撮影したもの(これを【Ⅰ】と表記しよう)。カメラの前にはipadが置かれ、画面にはipadのカメラが捉えたライヴカメラの機体が映し出されている。もうひとつはipad視点の映像で、ライヴカメラの機体が何かに反応して頭を左右上下に振っている様子が映っている(これを【Ⅱ】と表記しよう)。  これをどのように解釈すればよいだろうか。COVID-19が流行するなか、触れ合える距離のコミュニケーションは制限され、代わりにZOOMなどのウェブミーティングサービスを介して、人々は顔を合わせるようになった。この状況を受けて、チョンプナット・プータは、スクリーン、ヘッドホン、スピーカーに代替された五感ではなく「あなたに直接触れたい」という切実な欲望をディスクリプションに綴っている。  こうした欲望の観点を考慮に入れるならば、【Ⅱ】のように首を振るライブカメラの姿は、いくら反応しても現れない、親密な他者を必死に探し求めているように見えてくる。 あるいは、無機質な機械装置に親しみを与える試みにも見えるかもしれない。何かに反応して首を振るライヴカメラは、ペットのようにかわいらしいからだ。そこに、わたしたちを隔てる距離を超えて親密な触れ合いを可能にするコミュニケーションのヒントが隠されているかもしれない。  しかし実のところ、わたしが最も注意を惹かれた作品の特徴は、親密なものに方向づけられたこれらの諸解釈とは相反するものであった。  【Ⅰ】を見ているあいだ、手持ちの液晶画面はまるでハッキングされたかのようにライヴカメラの映像に占領される。だから視聴者の視野はライヴカメラの映像と同じものになる。いわば視聴者には、相手(iPad)を見つめる「ライヴカメラ」というパフォーマーの役が与えられる。また、iPadの見ている光景は、iPadの液晶画面に映し出されるため、iPadが「わたし」を見ていることはつねに証明されている。「わたしたち」は見つめ合っているのだ。  にもかかわらず「あなたが私を見ている」かどうか、わたしには決してわからない。iPadの液晶画面には「わたし」の顔が映っていない。わたしに認識できるのは、ライブカメラがむなしく頭を振る姿だけなのである。 わたしはあなたを見ているが、あなたが見ているのは「わたし」ではない。ここで見ているわたし(視聴者)と見られるわたし(ライブカメラ)は乖離する。それでは、ライブカメラの「こちら側」に、本当は誰がいるのか?   この漠然とした不安は【Ⅱ】で映し出されるライブカメラに感じられた親密さを、不気味なものに変えてしまう。いったいそこで、誰が誰を欲望しているのだろう? こうしてチョンプナット・プータの作品は、ライブカメラの両義性を明らかにする。それは一方で他者を欲望する親密なまなざしであり、他方で顔を喪失した不気味なまなざしなのだ。  20世紀後半、インターネットメディアが台頭する以前の世界では、他者との親密な関係は、外部から隔離されたプライベートな空間によって成立した。そのため、空間的距離の近接性で、親密さの度合いを測ることもできた。  ところが、ポストインターネットの世界では、プライベートな空間の障壁は崩壊し、近接しているから親密であるとは言えなくなった(わたしたちはチャットで愛を囁き、ビデオ通話でお互いの部屋を覗き合う)。インターネットに接続されたライブカメラは、親密さの度合いとは関係なく、プライベートな空間へのさまざまな人たちのアクセス=侵入を許してしまうのだ。  それゆえ、インターネットのテレコミュニケーションには、わたしを見ているあなたが誰であるのかわからないという〈幽霊的不安〉が常につきまとう。結果的に、〈他者への欲望/他者からの欲望〉が置かれる社会的位置も、親愛と暴力のあいだを揺れ動く不安定なものに変えられてしまうのである。 Ⅲ.  東ベルリン生まれの批評家、ボリス・グロイスは、ヨーゼフ・ボイスの「全ての人間は芸術家になるべきだ」という有名な主張を取り上げ、現在では「すべての人がどんどん芸術家にさせられている」と指摘している。  ……ごく普通の一般人もまた、美的な基準によって、つまり服装や体型などによって判断される傾向にある。別に不思議なことではない。芸術的行為というものが専ら芸術の生産から芸術の選別へと入れ替わっている今、鑑賞者は芸術を選別することによって自動的に芸術家になるのである(観客のインスタレーション,「ILYA […]

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Luo Fei

屏幕里的游戏 远程表演实验正在尝试开启一个来自屏幕世界的非线性身体叙事,由于身体、地方、空间、文化以及时间等现场表演的体验因素在屏幕中被化约为流媒体,屏幕中由影像编织起来的表演替代了空间里的实体表演。那么,制造观看或制造有问题的观看就成为远程表演里无法回避的议题。 泰国艺术家Chomphunut Phutta的表演”电壳”是由一台室内会转动的摄像头来完成的,它像一个简易的小型机器人。作者提供了两个视频画面,画面A:由摄像头录制的画面,有时码。它时不时转动一下,似乎在搜寻什么。不清楚是摄像头具有形象追踪功能还是艺术家在操控摄像头的转动,总之,拍摄到的画面看上去是一系列摄像头的“主观镜头”。画面B:刚才那个摄像头运动的过程被另一台相机拍摄并记录,这里,摄像头作为被观看的对象。偶尔出现画外音:say hello, can you hear me? You are watching me? 作为观众,我们观看了两台相机之间的观看与相互追踪。而在这两个视频的发布平台,网站后台管理者也将看到我们观看过这些视频的痕迹……Chomphunut制造了一个屏幕时代观看与被观看、追踪与被追踪的不断延展的关系。那么,当机器的观看替代了人的观看,未来谁将会是观看的主体呢? 许福晨的表演发生在南京某居民区的河道旁,他跪在地上慢悠悠地用额头撞破摆在地上的大近三十枚鸡蛋。这个表演让人想起中文里说的“死磕”,只是这次比较优雅。表演被命名为“虚数”,似乎地面的鸡蛋也被放置在某种坐标系中。这是一个低机位、单一镜头里的线性表演,多余的事物被安排在画面之外,眼前这块领地像一个舞台、一个祭坛,一场前现代平凡生活里的仪式。在云南的哈尼族、苗族、彝族等山区的少数民族那里,砸蛋也被称作“看蛋”,类似“看风水”或“掷签”,当地人用“砸蛋”的方式来“看”这个地方是否适合下葬。在前现代生活领域里,看的含义和今天的看如此不同。今天,仪式成为了身体游戏。 日本艺术家TAKUMICHAN的表演“用10分钟把100分钟的表演编辑成10分钟的表演”是一次有关时间压缩的表演,基于非线性编辑和多线程处理技术下的表演逻辑,也是有关表演的表演。那个房间里持续100分钟的表演记录,那个被加速成10分钟的快进表演视频,那个作者对表演视频进行编辑加工的过程,还有屏幕中那个非线性剪辑软件的工作进程。这些工作过程被并置在一起,哪一个才是“原始的”表演记录?然而这里并没有一个可以“被还原”的现场,只有被编织起来的有关表演的叙述。在这里,对时间的编辑覆盖了身体表演对空间的想象。 新加坡艺术家Sophia Natasha Wei的自拍表演“光辉”以反虚拟的技术手法还原娱乐中的游戏精神。在欢快的乐曲节奏中,艺术家在私人房间里用彩球、有机玻璃罩、led灯等材料对着屏幕释放表演的热情(艺术家根据音乐节奏对表演视频进行了编辑),她用身体和实物来模仿虚拟技术中的炫丽场景,由此完成一个由实物表演驱动的“低度特效”但“高度游戏”的AR现场(增强现实技术)。 在这几个表演案例中可以看到,表演以流媒体的形式被传播和观看,在数字时代,任何素材都可以被轻易编排与组合,这直接使得表演创作由对表演时间的加工代替了对表演空间的探索,时间取代了空间。在远程表演中,现场体验不再是表演的核心,而是屏幕中那个被组织起来的有关表演的叙事,那个屏幕中异质的游戏。 2021年1月14日,昆明 The Gameplay on the Screen The performance at distance experiment is trying to open a nonlinear body narrative from the screen world, where the live performance experience factors such […]

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Teng Yen Hui

Untitled (in solidarity) This is one of the rare works in which Ezzam’s skin approaches me as it is, undisguised as a beguiling flower encased within a shape of glass. Instead, it presents itself at once as organ and envelope, a still-breathing membrane; a whole sole laid bare. The performative video […]

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Annie Jael Kwan

Mapping Suwa in the digital : projections of land, the body and the spiritual through performance Earlier this spring 2020, I had the unexpected pleasure of visiting Lake Suwa and its esteemed Grand Shrine in Nagano. This unique historic and cultural site provided fertile ground for imagining artistic responses for […]

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Olaf Möller

Untitled Yarns of different strength and length connect all videos that make up this project: With Ezzam Rahman its a thread, with Evamaria Schaller wool, and with Maeda Yuzuru a strong plastic measuring tape which is essentially a modern day-version of the kind of string one maybe used for similar […]

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